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「アクティブ・ラーニング」から教育をもう一回考えてみる

  • 2015/10/15

最近、教育関係の書物などを読むと「AL」という略をよく目にします。「AL」?アルミニウム?米郵便のこと?メジャーのアメリカンリーグの略?などと思われるかもしれませんね。教育界で「AL」といえば「アクティブ・ラーニング」のことを指します。旬な言葉です。中央教育審議会によると「教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見出していく能動的学修」をアクティブ・ラーニングと言います。簡単に言えば、知識の伝達を中心とした座学中心の学習から、学び手が議論したり、発表し合ったりという主体的な学習を行うことで学習効果を上げようということだと思います。
最初にその理念を聞いた時、「何をいまさら」との思いを強く持ちました。主体的な学習などという概念は、僕自身が現場にいた10年以上も前から盛んに言われていましたし、そのひとつの現われが「総合的な学習」であり、詰め込みばかりの教育からゆとりのなかで主体的に学ぶ学習へ、つまり今や盛んに批判されている「ゆとり教育」の理念だったのではないでしょうか。
ゆとり教育からの脱却をすすめ、学ぶ内容を大幅に拡充し、学力テストを悉皆型で行い、点数競争に現場を追いやっている現状の中、アクティブ・ラーニングという概念を持ち込み主体的な学習を促す…。対象がそもそも小中高校でなくて大学教育の改善を求めたものであることは重々承知をしつつも、支離滅裂とまでは言いませんが、筋がないというか、施策の方向性が見えないというか、何をめざすのか言い分と実態が即してないと言わざるをえません。
そもそも教育とは何であるのか。私は教育を、教え導き、育てることであるとは考えていません。教育とは子どもの学びを支援することです。教育の目標は法的には「人格の完成」ですが、それぞれの学習者が自分の個性や持ち味を、知識の習得や経験の積み重ねを通じて、社会の中で意味あるものに伸ばしていくことだと思っています。その学習の手助けがいわゆる教育です。学習の主体は子どもたちをはじめとする学習者です。であれば学びの場は学校だけでなく、家庭も地域も、もっと広い社会全体ということになります。
この考えがないと、二つの大きな問題が生じます。ひとつは大人社会の思うような「よい子」をまさに育てることが教育の主目標であり、その画一的な基準から外れた子どもは「できない子」と認識されてしまうことです。世界的な学力テストや全国学力テストの平均点で日本中が大騒ぎする。いい例です。そんな一面的な評価はどうでもよいと思います。しかも、子どもの学びは中間点です。途上です。そんな成長の途中の一部の点数をとりあげてマスコミも大々的に報じ、首長たちは目くじらを立てる。小中学校で平均得点の高い地域の子どもたちは、高校や大学の学びの中でも同様の結果を残すのでしょうか。むしろ逆ではないか。途中経過にそれほどの意味はない。そういうことです。
ふたつめの問題点は、子どもの成長を促す教育の場イコール学校であるという思い込みです。学びの場は子どもたちを取り巻く環境の全てです。子どもに関する事件などことが起きると、学校現場に様々な課題が持ち込まれます。教育の場は学校という考えが根強くあることの現れです。さらに、ご自身の子どもの学びに関して、保護者が学校に怒鳴りこんでくるようなケースが増えています。愚の骨頂です。ひとつの問題点が解消されたとしても、総じて子どもの成長にいいことはありません。保護者の皆さんもそこのところはきちんと認識されたほうがいいと思います。学校は保護者にとってサービスの提供者ではありません。ともに子どもの成長を支援する同志です。もちろん学校の側にもそうした意識をしっかりともって欲しいと思います。
政治家もしかりです。政治の場でもそうですが、公的な審議会などでも委員たちが教育の方向性について議論しています。「自分のころはこうだったのに」「今の子どもはこんなところが足りない」とか自身の経験に基づいて話されることも多いようです。こうした議論はもういらない。子ども自身や少なくとも最近まで学校教育を受けていた若い人たちを委員にして、今の教育の現状を語ってもらうほうがよほどいいと思います。