天の崩れを心配するなんてありえない。
- 2011/05/20
五木寛之さんの「人生の目的」。
読んだことのある方も多いと思います。
「生きることは苦しいことである」こんな認識を新たにしつつも、安心する。
暗くなるけど元気が出る。
そんな不思議な本です。
この本の中にこんな部分があります。ちょっと長くなりますが引用します。
思うことはいろいろある。トルコ、ギリシャ、台湾、メキシコと、たてつづけに大きな地震がおそった。… しかし、台湾で起こった地殻の変動が、決してこの列島では起きないと考えるのは自然ではない。それこそ非科学的な態度というものだ。また、このところ核利用施設の事故があいついで発生した。今後、いつか、どこかで、もっとひどい大災害がひきおこされるかもしれない。そう考えるほうが、むしろ現実的なものの見かたというものだろう。
そんなことを心配することを杞憂というんだよ、と笑われそうだ。キユウとは、むかし中国の杞の国の人が、天が崩れ落ちるのを心配したという話から出た言葉である。… 天が崩れ落ちることなんか心配するより、道で転んでケガをしないようにしろよ、とは、よく言われる言葉だ。たしかにそのとおりではある。しかし、やがてくる地震のことを考えるのは「杞憂」ではない。核施設の大事故を心配するのも、決して「杞憂」ではない。
以上「人生の目的」より
10年前の本です。
天は崩れ落ちることはありません。「杞憂」とは起きないことを心配することです。起きないはずのことを心配することではないんですね。
起きないはずのことが起きるのはまさに現実です。歴史です。
むしろ世の常であり、人生そのものです。
であれば「杞憂」という状況は、そもそも存在しないとも言えます。
起きないことを心配する人はいないからです。
原発事故そのものが実際に過去にも数多く起き、現実に事故が起きないための対策をすすめてきた。このことがまさに「杞憂」でなかったことをものがたっています。
起きることは起きる。これからも起きる。
そんな当たり前のことを僕たちはどこまで認識できるのだろう。
そんなことを思っています。